柴崎友香『千の扉』こたつの天板の裏の緑色の布地の面

母からタッパーに詰めた煮物やら缶詰やら餅やらお菓子やらが届いた。ほとんどが調理をしなくてもすぐに食べられるもので、それは私が親元を離れてひとり暮らしを始めた大学生の頃と変わらない。母が作った煮物は美味しくて、敵わないなあと思いながら食べた。後で「煮物を入れたタッパーはタッパーウェアのいいやつだから捨てないで使いなさいよ」と母から電話で言われた。そういえば全く汁漏れしていなかった。

 

柴崎友香の『千の扉』(中公文庫)を読んだ。

柴崎さんは、好きな作家の一人で、文庫化された作品のほとんどを買って読んでいる。ただ、私は怖いのが苦手なので『かわうそ堀怪談見習い』は意図的にスルーしている。

『千の扉』は、最近読んだ柴崎作品の中で、久しぶりにすぅっと入ってくる小説だった。『パノララ』も『春の庭』も面白かったけれど、読んでいる時にすぅっと入ってきている感じはなかったように思う。これは、どの作家にも言えることなのかもしれないけれど、作品がだんだんと重厚感を増してくると同時に初期の頃の良い意味での軽さが失われてしまう。変化するのが当たり前なのだと分かってはいるけれど、その変化が自分の好みと違ってくると、好きだったはずの作家から次第に気持ちが離れていく。柴崎さんにもそれをほんの少し感じていたところだったのだけれど、『千の扉』を読んで、ああ、やっぱり柴崎さんはいいな、となった。

主人公の千歳は、結婚したばかりで夫・一俊と共に一俊の祖父・勝男の代わりにしばらく都営住宅に住むことになる。勝男が骨折して入院中という事情があるとはいえ、新婚でいきなり夫の祖父が住んでいた団地にと思ったが「新婚、と呼ばれる範囲ではあるが、人からそう言われたことも、自分たちで思ったこともなかった。一俊は三十五歳、千歳は三十九歳」とあった。

千歳は、勝男から一俊や他の家族には内緒で、同じ都営住宅のどこかに住んでいるある人物を探して欲しいと頼まれ、それを引き受ける。しかし、広大な団地で勝男から得たわずかな情報が頼りの人探しは難航する。

ストーリーは、千歳だけでなく様々な人物の視点に切り替わりながら展開する。それだけでなく、時代も前後する。今と昔。昔は、戦後まもない頃まで遡る。急に視点が切り替わって、この人物は一体誰なのだろうかと思うのだが、それが読み進めていくうちに明らかになるあたりは、まるでミステリー小説を読んでいるようだった。

 

柴崎さんの小説を読んでいて、私がハッとするのは大体いつも何気ない(ように感じさせている)描写だ。

 

千歳が子供の頃も、近所の家で父親たちが麻雀をしていたな、と誰の部屋だかわからない光景が浮かぶ。お正月などもこたつの天板を裏返して緑色の布地の面が現れて。この団地にいると忘れていたことが次々に思い出される。思い出すまでは消えてしまって、つまり存在しないことになっていたのに、思い出した途端にどこかに隠れていただけでなくなったわけではなかったのだ、と驚く。こうして思い出さなければそのまま消えてしまった、というそのことに。

 

思ったり感じたりしてはいても自分では上手く言葉にできないことが、言葉になっているからハッとするのだろう。

ところで、こたつの天板の裏にあの緑色の布地の面があるものは、今はもう売っていないのだろうか。麻雀はしなかったが、子供の頃、家族で花札やトランプをするのに使ったことを思い出した。調べてみると、まだ売っていた。

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