堀江敏幸の『戸惑う窓』を読む

芸能人は歯が命(若い人は知らないだろうな)なのではなく、好感度が命。好感度を下げるようなことがあればCM契約なんてあっという間に切られてしまう。いやはや大変だ。しかし私はエッセイを読んで以来、彼女のファンなので彼には同情しないが。スマホでネットニュースを見ながらカップいっぱいのココアを飲む。牛乳の賞味期限が迫っているのだ。

 

堀江敏幸の『戸惑う窓』(中公文庫)を読んだ。ちびちびと読んで、ようやく読み終えた。

堀江さんのエッセイは面白くて一気読み!みたいなのではない。私にはよくわからない部分(絵画の話など)もあって、そういうところは正直あまり面白いと感じないのだけれど、それでも堀江さんの文章に触れたくて読んでいる。

少し長いが「光はノックもせずに入ってくる」から引用する。

その目覚めの場が、街なかにある自分の家ではなくて、山野に囲まれた親族の、なにからなにまで木造の古い家に移されるとどうなるか。雨戸のうちでも極小の節穴から差し込んだ光が、ピンホールの原理で障子に逆さの像を映し出す奇跡をもたらしてくれたのである。縁側の向こうはなだらかに下っていく畑地になっていて防砂のために松が植えてあったのだが、そのうちの一本に当たる陽光が空気中に舞う埃や煙草のけむりとは別種の光の実在を感じさせてくれるのだった。柱と柱のあいだで戸惑う雨戸の、縦のスリットから漏れる光の筋も美しい。しかし夢うつつの状態で眺める光景としては、障子に映った倒立像の方がはるかに幻想的だった。ふだんとはちがう環境で目が覚めた直後のかすかな緊張、差し込んでくる陽光の微妙な角度。生起している出来事の非現実的な色合いをそれらがいっそう濃くしてくれる。暗い部屋の内側の、明るい映写幕。映画館のなかにいるのか、カメラの暗箱のなかにいるのか。窓はもはや手で触れられるものではなく、網膜上にしか存在しない幻になっている。

 

こんな文章をゆっくりと読んでうっとりとする。至福の時間だ。

 

「窓」について語るために詩や随筆、小説などからの引用も多い。私が特に惹かれたのは「輸入された鼠」に引用された短篇小説だった。

「輸入された鼠」はこんな書き出しで始まる。

異なる題名の付された三つの小品をひとつの組曲のようにまとめるとき、それらすべてを包括しうる総題を見出すのは案外難しい。一冊の本であれば、お気に入りの一篇を表題作にしたり、まるで無関係の言葉を引っ張り出したりしたとしてもたいして問題にはならないのだが、短い作品を三題噺のように並べた場合、どれかひとつのタイトルを全体に冠すると均衡が崩れてしまうことがある。

 

さらにこう続く。

たとえば、「鼠」「三人」「一等戰鬪艦××」と題された掌篇がこの順序で配されていたとしよう。どの表題を採用しても、全体をくくるにはなにかが足りない。

 

この先で引用される小説が、誰の作品なのか、読んだことのある人は「鼠」、「三人」、「一等戰鬪艦××」でわかるのだろうが、私は全くわからなかった。

それが誰が書いた小説なのかは最後の最後に明かされる。私は後で青空文庫に入っているその短篇を読んだ。

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