朝、一晩中つけっぱなしのエアコンを切って、窓をあける。まだ早い時間の爽やかな風が入ってくるのを期待して。
でも、その期待はあっさりと裏切られる。網戸を通して入ってくるのは、ぬるい風と蝉の大合唱。部屋の温度はあっという間に30℃を超える。子供の頃、夏休みのラジオ体操で汗だくになった記憶はない。日本の夏は、いつからこんなに暑くなったのだろうと、毎年のように思うけれど、思ったところで、この暑さはどうにもならない。
乗代雄介『本物の読書家』(講談社文庫)を読んだ。
単行本の落ち着いた雰囲気の表紙からガラッと変わって、黄色が目立つポップな表紙の文庫本。表紙絵には、表題作「本物の読書家」に出てくる小道具がいくつか描かれている。
主人公の間氷は、老人ホームに入所する大叔父を送り届ける役を引き受け、上野駅から二人で常磐線の電車に乗り込む。
私は、「本物の読書家」のざっくりとしたあらすじしか知らなかったので、老人ホームに向かう電車の中で、読書家の大叔父と大甥が読書について話をしながら別れを惜しむ、といった感じのストーリーだろうと想像していた。
しかし、全く違っていた。間氷は、大叔父のためではなく、母親がやると言った三万円に釣られて付き添い役を引き受けたのだ。おやおや。私が思っていたのと違う。
電車に乗った二人は、ボックス席で大阪弁を話す男、田上と相席するのだが、この田上がなんとも胡散臭い。薄気味悪いと言ってもいい。
短い旅の道連れとなった田上は、大阪弁でひとり捲し立てるように喋る。
田上は、世界各国の著名な作家の誕生日を暗記しており、鞄には崎陽軒のシウマイ弁当とシャーウッド・アンダーソンの『黒い笑い』を忍ばせていた。古本屋で買ったという『黒い笑い』の状態は異様なもので、ここには書かないが、その描写を読んで想像しただけでゾッとした。
ここで、読者(私)はあやしいと気付く。大叔父は、川端康成からもらった手紙を持っていると親戚の間で噂されていたのだ。読書家らしい田上が、大叔父に偶然近付いてきたとは思えない。
田上は、どうやら間氷がどの程度の読書家なのかを試しているように思えるのだが、間氷を試しているのは田上だけでなく大叔父もであった。大叔父は、かつて川端康成との間に起きた出来事を話す価値のある相手かどうかを、試していたのだろう。
「腕の付け根といいますか、肩のはしといいますか、なんともそこの美しい娘でした。わたしはその清純で優雅な円みに惹かれたのです」
急にずいぶん気取った言い方をするものだと小憎らしく思いながら、気の毒なことですねと会話を請け負うつもりで言った。事故の時にはもう知り合っておられたのですか。
大叔父上の目がわたしを捉えた。意外なことに、それも今しがた男に向けたのと同じ不機嫌な視線に思われた。大叔父上は首を振って、再び窓の外に目を向けた。わたしもなんとなくそうせざるを得なかった。
「本物の読書家」は、とにかく引用が多い。川端康成、カフカ、フローベール、フォークナー、太宰治などなど。
肝となるのは、川端康成だが、実は、私は、川端康成の小説をきちんと読んだことがない。うっすらと記憶にあるのは、教科書か、あるいはテストの問題文で、その一部を読んだ「伊豆の踊り子」くらい。夏目漱石、谷崎潤一郎、太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫などは、少なくとも一冊は文庫を買って読んだことがあるのに、なぜか川端康成には惹かれなかった。
でも、大丈夫。川端康成を好きでなくても、カフカやフローべールを読んだことがなくても、「本物の読書家」を面白いと思えた。
大叔父が語った川端康成の手紙についての話は、驚きの内容だった。そして、大叔父と大甥の心温まる交流が描かれているものと思い込んでいた私にとって、間氷、大叔父、田上の三人に訪れた結末もまた驚くべきものだった。
何とも言えない読後感だが、私は結構好きだ。
表題作「本物の読書家」が目当てだったので、収録作「未熟な同感者」はおまけのようなものと思っていたのだけど、なんと、これが、思いがけず百合だった。
主人公の大学生は、慕っていた叔母を亡くし、大学に通う気もなくなるほど気落ちしていた。残りもののゼミに決まって、顔を出すと、そこには三人の学生がいた。そのうちの一人は「不用意に見てしまうと息が止まるぐらいの美人」だった。
私たちは互いにとがった肘を交わらせて靴紐を結んだ。そのおしまいに付されたさり気なくも鮮やかな間村季那の行為によって、立ち上がった時の私たちは、指を絡めて手を繋いでいた。間村季那のさらさらした手は官能的に温かかった。それが相手への親切な引導だと気づくには、私の胸が高鳴りすぎていたぐらいである。
しかし、この思いがけない百合に喜んでいる余裕は私にはなかった。
「本物の読書家」同様、いや、それ以上に「未熟な同感者」は引用が多い。今度は、サリンジャー。
川端康成と違って、サリンジャーなら読んだことがある。ただし、『フラニーとズーイ』だけ。しかも、サリンジャーを読みたいというより、村上春樹の翻訳を読みたくて読んだ。読んだけれど、よくわからなかった。
そして、「未熟な同感者」で多用されるサリンジャーや他の作家の作品からの引用もまた、私にはよくわからなかった。いっそ引用なしで話を進めて欲しいと思った。
乗代雄介さんの小説を読むのは、これが初めて。たぶん半分も理解できていないと思う。よくわからないけど、嫌いじゃない。むしろ好きかもしれない。
この、よくわからないけど好きな感じ、保坂和志さんの小説に対するものと似ているかもしれないと思いながら読んでいたら「未熟な同感者」に保坂さんの作品からの引用があった。
「未熟な同感者」で「阿佐美ちゃん」と呼ばれていた主人公は、どうやら他の作品にも登場しているらしい。阿佐美景子が登場するのは、デビュー作『十七八より』と『最高の任務』の表題作。
まずは文庫化されている『十七八より』を読んでみたい。そのうち。