ダービーを前に『Y先生と競馬』を読む

5月とは思えない夏のような暑さの中で開催された今年の日本ダービー。パドックを周回する馬は汗をかき、その汗が白く泡立っている。テレビを食い入るように観ていると、やがて私の本命馬が映し出された。皐月賞3着のダノンキングリー。父は無敗でダービーを制覇した三冠馬ディープインパクト。黒鹿毛の馬体が光っている。気合乗りもいい。返し馬の気配は、馬も騎手も静かな闘志を感じさせるものだった。レース終盤、直線を向いた時は勝ったと思った。しかし、ダノンキングリーの猛追をクビ差凌いでダービー馬となったのは、人気の皐月賞上位馬ではなく、12番人気と人気薄のロジャーバローズだった。ロジャーバローズもまたディープインパクト産駒。ダービー初制覇で見事ダービージョッキーとなった浜中騎手は感動よりも驚きの方が大きかった様子で、馬上で涙を拭った昨年の福永騎手のような感動的なシーンは観られなかった。

 

ダービーを前に購入して積みっぱなしにしていた坪松博之『Y先生と競馬』(本の雑誌社)をようやく読んだ。

Y先生とは、山口先生、作家・山口瞳のこと。

私は、山口瞳の本は『草競馬流浪記』しか読んでいない。『Y先生と競馬』も山口瞳その人の事というよりもむしろ「競馬」の方に惹かれて購入した。いつもなら文庫化を待つところだけれど、本の雑誌社の本はおそらく文庫化されないだろうと思い、単行本を買った。しかし、なんとなく読むタイミングを逃していた。

『Y先生と競馬』には、山口瞳、治子夫人と山口瞳から坪やんと呼ばれた著者・坪松博之との東京競馬場(上山競馬場、祇園ウインズ)通いの日々が描かれている。

第一章「一九九二年日本ダービー 東京競馬場」から始まり、第七章「一九九五年オークス 慶應義塾大学病院」、終章「一九九五年九月二日」という目次を見ただけで、どんな結末が待っているのかがわかってしまい読む前から少し切なくなる。

『草競馬流浪記』を読んだだけではわからなかった山口瞳という人の魅力が伝わってくる作品だった。

1993年、著者がダービーの本命と早くから追いかけていたガレオンという馬がいた。しかし、皐月賞で3着に入線しながらも他馬の進路を妨害したとして降着となってしまう。

その皐月賞をテレビで観戦した後、著者はY先生と温泉に入る。

 

背中をこすっていたらY先生から「ガレオン、いい馬だね」と慰められる。「ダービー向きだよ」なんと優しいお背中なのか。ガレオンよ、この有難いお言葉が聴こえているか?なんとしてもダービーには出走するのだぞ。

 

ダービーに出走したガレオンは4着に終わる。勝ったのは、Y先生の本命ウイニングチケット。

 

四着。ガレオンの夢は届かなかった。実力がひとつ足りなかった。「追っかけ」として勝手に夢を膨らませていただけなのだろう。双眼鏡でターフを見続けていたY先生が「ガレオン、騎手が降りているよ」とおっしゃる。故障発生だったのか。やはり無理をしていたんだな。Y先生こちらを振り向き、胸ポケットからガレオンの単勝、複勝馬券を取り出しながら「惜しかったね。一瞬、勝ったかと思ったよ」無理して天ざるを頼む人である。やはり心遣いの人なのである。思わずY先生にお願いしてその馬券をいただくことにした。馬券は温かかった。二枚ずつになった単勝・複勝馬券を印伝「ふすべ焼き」の財布にしまいながら切なさと嬉しさが湧きだしてきた。的中した馬券よりもいとしく思えるはずれ馬券があるなんて、今まで考えたこともなかった。

 

Y先生と坪やんのような関係が果たして今の時代の作家と担当の間に築かれることがあるのだろうか。

Y先生と過ごした日々を振り返る中で、『草競馬流浪記』や男性自身シリーズなど山口瞳の作品からふんだんに引用しているため、読むうちに『草競馬流浪記』を読み返したくなったし、読んだことのない男性自身シリーズを読みたくなった。

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