武田百合子『ことばの食卓』食べものエッセイだと思って軽い気持ちで読み始めたらとんでもなかった

雨の日が続く。食パンを切らしていたので今朝はうどんを食べた。昼前、お気に入りのパン屋のレモンパンが無性に食べたくなったけれど傘をさして出かけるのが億劫だったので諦め、昼はパスタ(ツナ+麺つゆ)を食べた。麺、麺だ。

 

武田百合子の文庫本でまだ持っていなかった『ことばの食卓』(ちくま文庫)を買った。これでコンプリート。ただし、講談社文芸文庫の『個人全集月報集』は除いてだけど。『あの頃』と『武田百合子対談集』もいつか文庫化されるだろうか。

『ことばの食卓』はタイトル通り食べものエッセイ。文庫裏にも「食べものに関する昔の記憶や思い出を感性豊かな文章で綴るエッセイ集」とある。

初読だが、最初に収録されている「枇杷」はあまりに有名なので知っていた。夫の泰淳さんが枇杷を食べた時の様子をまるで今、目の前で見ているかのようにことばで再現する百合子さん。私は夫のことをここまでじっと見つめたことがあるだろうかとふと思った。

しかし、そんなセンチな気持ちは「枇杷」に続くエッセイ「牛乳」によって吹き飛ばされた。パワフルなイメージの百合子さんだが小学校では要注意虚弱児童に指定されていたという。そして、おばあさんから牛乳を飲むようやかましく言われていた。

牛乳を飲んでから、お風呂に入ったら、むっとこみ上げてきて、湯舟の中を白濁させたので、湯上りに飲むようになったのだけれど、それでも、やっぱり、むっとする。やっとのことで飲み干したあとも、しばらくは、のろのろと、湯呑の馬の絵を指でなぞったりなどしている。乾きかかった湯呑の中を嗅いで、お尻の臭い、と思う。

 

私は子供の頃から牛乳が苦手で今でも牛乳をそのまま飲むことはできない。「牛乳」はそんな私でさえ牛乳を飲みたくなるエッセイなのかもしれないと思ったのだが違っていた。さらに「牛乳」は牛乳の思い出から牛乳配りをする牛乳屋へと話題が変わる。その牛乳屋がこわい。家の外で百合子さんを見つけると、白手袋の両手をひろげて追いかけてきて肋と腋の下に手を入れて抱き上げるというのだ。牛乳屋は学校の帰りにも道いっぱいに手脚をひろげて立ちはだかり、待ちかまえていて、友達は素早く逃げるのだが百合子さんはランドセルと草履袋ごと抱き上げられて、そのまま家まで送られてしまうのだ。今の世なら(当時もそうかもしれないけれど)大問題だ。

食べものエッセイだと思って軽い気持ちで読み始めたのに話が違う。ちょっとしたホラーだ。しかし、よくよく考えてみると文庫裏には「食べものに関する昔の記憶や思い出を感性豊かな文章で綴るエッセイ集」と書いてあるのだから、話は違わない。『ことばの食卓』は食べものに関するエッセイではなく、食べものに関する昔の記憶や思い出についてのエッセイなのだから。

それにしても「夏の終り」に出てくるオムレツのなんともまずそうなこと。「夏の終り」では娘の花さんは結婚して一年。注文したオムレツが出来上がるまでにこんなことを話している。

「男ってオムレツ好きよ。オムレツとかシューマイとか。むうっとしたもの好きみたい。今度作ってやるかな」娘は結婚して一年になる。

 

しかし、続く「京都の秋」では離婚している。

E家の人たちと墓参に来た帰りには、娘のつれあいの兄にあたる人が、この石段の端を先へ先へと、背広の上衣とネクタイをひるがえしながら駆け下りて、前へまわっては写真機を構え、私と娘の写真を何枚もうつした。秋のお彼岸の快晴の日で、日光は眩しく、全員汗ばんで上気し、むやみと笑った。芝居を演っているような気分だった。あの写真、E家ではきっと破って、ちぎって捨てたろう。先に下りて行く娘にそう言うと「そりゃ、そうだ。当たり前のことです」と娘は振り向かずに、下まで真直ぐの石段を下りて行く。

 

それは言わなくてもいいのに(笑)。母親ってなんでそうなんだろうと娘の立場で思ってしまった。

エッセイというよりも短編小説を読んでいる気持ちになった。武田百合子の凄みを感じる一冊。

買った本

長嶋有『愛のようだ』(中公文庫)、武田百合子『ことばの食卓』(ちくま文庫)購入。

前の記事に書いたようにKindle Oasisを買おうか迷っているところなので、Kindle版がある文庫の購入はとりあえず保留している。例えば伊坂さんの『ホワイトラビット』とか。『愛のようだ』と『ことばの食卓』は今のところKindle版がないのでこれまで通り文庫で。

好きな作家の作品、特に小説は紙の本で読みたいし、紙の本で持っていたいという思いがやはりある。

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